本連載第1回、第2回では、自律神経に関する新しい理論であるポリヴェーガル理論の基本的な部分と心理的安全性との関係をご紹介しました。
最終回では、「産業保健の現場にポリヴェーガル理論をどう役立てる?」というテーマでお話しします。
◆自律神経が切り替わると身体はどうなる?
これまでの連載で、ポリヴェーガル理論では3系統の自律神経が周りの環境に応じて切り替わって働くことを説明しました。それぞれの自律神経が働くとき、どのような生理反応が起こるかをみていきましょう。
①つながりを作るための神経(腹側迷走神経複合体)
周囲の環境が安全安心を感じる状態だったり、気の置けない仲間や家族と一緒にいてリラックスしていたりする状態のときは、他者と関わるための「つながりを作るための神経」が働き、下記のような生理反応が起こります。
- 眉間や目の周りの筋肉が緩み、柔らかい目になる
- 目じりが下がり、優しい瞳になる
- 緩やかで柔らかな顔の表情になる
- 穏やかで抑揚に富んだ声になる
- 心拍数、血圧が落ち着く
- 呼吸がゆったりと深くなる
- 胸郭が広がり、伸びやかな姿勢になる
②自ら動いてなんとかするための神経(交感神経)
他者とのつながり感や安心感を持てず、周りからストレスがかかったり、危険を感じたりすると、その状況に能動的に働きかけて対処するための「自ら動いてなんとかするための神経」が作用し、下記のような生理反応が起こります。
- 瞳孔が散大し、目を見開き、目が乾く
- 目つきが鋭くなり、視野が狭くなる
- 険しい声や表情になる
- 心拍数、血圧が上がる
- 顔面の紅潮がみられる
- 呼吸が浅く早くなる
- 身体に力が入り、ふるえ、発汗などがみられる
- 内臓(消化器・泌尿器)の活動が低下する
- 前のめりの姿勢になる
③いのちを守るための神経(背側迷走神経複合体)
交感神経優位の状態が長く続いたり、急激なストレスがかかるような状況下で、自分が頑張ってもどうにもならない状態に陥ったりすると、環境に働きかけるよりも生命を守る方が優先されるようになります。そうすると、生の脅威が過ぎ去るまで受動的に対処するための「いのちを守るための神経」が働き、下記のような生理反応が起こります。
- 瞳孔や目が小さくなる
- 耳が聞こえにくくなる
- 抑揚のない声になり、表情が乏しくなる
- 心拍数、血圧が下がる
- 顔面が蒼白になる
- 呼吸が浅くゆっくりになる
- 全身倦怠感や疲労感、寒気を感じる
- 内臓(消化器・泌尿器)の活動が亢進する
- 記憶力、集中力が低下し、頭の回転が鈍くなる
- 胸郭が閉じ、前かがみの姿勢になる
メンタルヘルス不調者において、おなかの調子が悪い、吐き気がするといった消化器系の訴えから体調不良が始まるケースが多くみられます。これは、交感神経と背側迷走神経複合体が働く状態を行ったり来たりしているからだと考えられます。
◆安全・安心・つながり感が持てないと職場でどうなる?
これまでの連載でお伝えしてきたように、腹側迷走神経複合体が優位の状態が良くて、交感神経系や背側迷走神経複合体が優位の状態が悪い、ということではありません。交感神経系や背側迷走神経複合体が優位の状態は「いのちを守る」ための防衛反応なので、生きるために必要な反応です。
そして、「②自ら動いてなんとかするための神経」と「③いのちを守るための神経」が最適なバランスで健全に働くためには、「①つながりを作るための神経」による社会的関与システムがベースとなり、①と②のブレンド状態や、①と③のブレンド状態を作ることが大切です(図1)1)。
ベースに「①つながりを作るための神経」による社会的関与システムが活性化してない状態、すなわち「安全・安心・つながり感」が持てない状態とは、前回で説明した「心理的安全性」が感じられない状態といえます。
- チームのメンバーのことが信頼できず仲間だとは思えない…
- 失敗したり弱みをみせたりすると攻撃される…
- 結果や数字のみで評価され、がんばったプロセスは考慮されない…
- チームの成果のために発言したり行動したりしても揚げ足を取られる…
- 困ったことやわからないことがあっても気軽に相談したり頼ったりできない…
- 時には上司からハラスメントのような対応を受ける…
このような環境だと、職場ではどんな行動や事象がみられるようになるでしょうか。
自律神経の反応として周囲は危険なところだと知覚して、敵か味方かのような白黒思考になりやすくなります。失敗したりわからないことがあったりすると責められるので報連相(ホウレンソウ)が遅れがちになったり、ミスを隠すようになります。周囲の人々が仲間だと感じられないので自分ひとりでがんばっているというような孤立感を抱いたり、ミスをしないように消極的になり自己保身に走ったり、人のせいにしたくなったりするかもしれません。
短期間であれば、「②自ら動いてなんとかするための神経」で対処できるかもしれませんが、心理的安全性が感じられない状況が常態化して、②では対応しきれないほどがんばらないといけない状況が続くと、心身ともに疲弊して「③いのちを守るための神経」に切り替わります。
前述したような生理反応がみられるようになり、自分の中に引きこもる感じになります。頭にエネルギーがいかないので、思考力、記憶力、集中力が低下したり、頭の回転が鈍くなったりするような感覚になります。その結果、仕事のミスや抜け・漏れが増えるでしょう。パフォーマンスが落ちたことを時間でカバーしようとして残業時間が増えることもあります。
他者と関わることにエネルギーを割く余裕もなくなりますので、人と関わりたくない、ひとりになりたいなどと考えるようになるかもしれません。 私自身も経験がありますが、疲労困憊して、うつ状態のようになると人に会いたくなくなり、周りの人の言葉が耳に入らない、文章もよく理解できないといったことが身体レベルで起こるのです。
職場ではよく「あいつは感謝が足りない」とか、「仕事に対してやる気がない」というような評価を聞くことがありますが、これは性格や能力の問題ではないかもしれません。③の状態では、自分のいのちを守ることが優先されて、やる気や感謝の気持ちが生まれるような余裕はなくなるのです。
◆産業保健の現場にポリヴェーガル理論をどう役立てる?
ここまで、心理的安全性が感じられない、つまりベースに「①つながりを作るための神経」による社会的関与システムが活性化していない状態でみられる生理反応や、職場でありがちな行動や事象について説明してきました。
本連載の最後に、ポリヴェーガル理論を理解しておくと産業保健の現場で特に役立つ場面として、過重労働面談とメンタルヘルス不調者への支援を挙げておきます。
長時間残業が続く、次から次へと締め切りに追われるといったような働き方だと「②自ら動いてなんとかするための神経」→「③いのちを守るための神経」の状態になりやすくなります。
とはいえ、仕事の場では締め切りに間に合わせるようにがんばったり、苦しくても課題を乗り越えるために力を尽くしたりしないといけないときもありますよね。このような場面でチームのメンバーとのつながりを感じられず、「自分ひとりでがんばっている」というように孤立感を抱きやすい状況だと、③の状態に入りやすくなります。ですから、「ここ一番!」というときにはチームで力を合わせてがんばっている、と感じられるような配慮や声かけがあると孤立感を抱きにくく、①と②のブレンド状態となり、他者とのつながりを感じながら能動的にがんばることができるようになるでしょう。
過重労働面談でも面談対象者本人やチームに対して、メンバーが孤立しないような働きかけをしてみてください。
②の「自ら動いてなんとかするための神経」は、過重労働や心理的安全性が感じられない人間関係などの影響だけでなく、騒音や人の多さなど環境からの影響も受けて活性化します。メンタルヘルス不調による休業から復職してしばらく経つのに、なかなか人の多いところに慣れないとか日中はなんとか持ちこたえても就業後にはグッタリして動けない、というような訴えは珍しくないのではないかと思います。
不調者本人は「なかなかもとの元気な状態に戻れない自分に劣等感がある」「復職してからけっこう経つのに、この状態がいつまで続くのだろう!?」と自分を責めてしまいがちです。それでなくても復職後、精一杯がんばっているのに、自分を責めることにエネルギーを使ってしまうと回復の妨げになります。
こんなときには「休業していたときに比べると環境からの情報量が多くて自律神経レベルで疲れてしまうのも無理がないこと」「やる気が出ない自分を責める必要はない」「自分のペースで必ず元気になるから大丈夫です」と伝えることで、面談対象者本人と産業保健スタッフとの間でつながりの感覚を持つことができるようになり、①と③のブレンド状態を作りやすくなります。
もうひとつ大切なことは、私たちは近くにいる人の自律神経の状態に影響を受けるので、産業保健スタッフ自身が①の状態でいることも、面談対象者の安全安心には不可欠だということです。
「①つながりを作るための神経」を活性化させるために手軽かつ簡単にできそうなのは、腹式呼吸です。おなかで深い呼吸をすることで①の腹側迷走神経複合体は活性化しやすくなります。また、意識的に笑顔や柔らかい表情を作ることも役に立ちます。ぜひ試してみてくださいね。
◆おわりに
3回にわたりお届けしてきたポリヴェーガル理論。特にメンタルヘルス不調者の支援には欠かせない理論だと思いますので、興味を持たれた方はぜひ参考文献もご覧になってみてくださいね。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
参考文献
1)津田真人.ポリヴェーガル理論への誘い.東京,星和書店,300p.
2)津田真人.「ポリヴェーガル理論」を読む:からだ・こころ・社会.東京,星和書店,636p.
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◆著者プロフィール
上谷実礼(ヒューマンハピネス株式会社代表取締役)
千葉大学医学部卒。多くの企業での産業医活動とあわせて、メンタルヘルスやコミュニケーションの専門家として企業や対人援助職向けの研修・講演・コンサルティングを行う他、個人向けには自己受容のためのカウンセリングや講座・勉強会を行っている。