一般社団法人矢島助産院 院長
矢島 藍
ホントか嘘かわからないけれど、私は母の勤める助産院で、生後1か月の頃から母におんぶされながら出産に立ち会っていたらしい。その後、自宅で私を取り上げてくれた母の師匠が、私が2歳になる前に他界したため、母が自宅のマンションで助産院を開業したのがはじまりだった。
物心がついたときから自宅に妊産婦さんや赤ちゃんがたくさんいて、にぎやかな空間で育ったことを覚えている。仕事と家庭の境目があいまいで家族の団欒という風景はなかったが、たくさんの先輩助産師さんに育ててもらえたことは、今振り返ると刺激的で楽しい子ども時代だったと思う。途中、軽めの反抗期を迎え、グズグズ言いながらも進路は看護師。そのまま助産師の道へと来てしまった。私のRoots は自分の記憶にはないところで体に刻まれているのかもしれない。
母の矢島床子は、女性の心と体を傷つけないこと、女性と対等な目線で向き合うことを大切に、仲間たちといつも楽しそうに笑っていた。そして、いつも何かを守るために戦っていた。その助産道で「否定しない」「いつも体のどこかに触れている」「その人のすべてを受け入れる」という三原則をつくり、たくさんの助産師や妊産婦さんたちに伝え、実践してきた。
私が高校生の頃は年間270件取り扱っていた分娩が現在は年間50件ほどになり、当院の経営は産後ケア事業に支えられている。分娩介助で駆け抜けた時代は終わってしまったが、産後ケアを通じて助産院を知らなかったお母さんたちのケアに携わることができ、やりがいを感じている。そして、今こそ母が言い続けてきた三原則が、私たちが提供する助産ケアの本質に直結していると感じている。母が開業した助産院が、さまざまな背景を持ったお母さんにとって、安心して心と体を委ねられる場所でありたいと思う。そのためには、私たち助産師が「目の前の相手をサポートしたい」という姿勢を崩さず、短時間でも丁寧に関わる必要がある。生まれる命が減るということは、お母さん一人ひとりと、もっと丁寧に関わることができるということなのかもしれない。未来のためには、今やるしかない。
母が助産院を開業してから今年で39年目になる。私が母と一緒に働くことができたのは8年くらいかもしれないが、振り返ると、私は母と働くために助産師になったのかもしれない。いつも笑顔で、人との関わりを大切に、たまに怒り、戦いながら、母が教えてくれたことを大切につないでいきたいと思う。認知症で私が娘だということもわからなくなった母は、今日も施設でニコニコ可愛く過ごしていて最高に愛しい。母へ心からの感謝を伝えたい。
本記事は『ペリネイタルケア』2026年10月号の連載Rootsからの再掲載です。
*** 今号からスタートの新連載 ***
母乳育児支援の現場から 迷い・気づき・寄り添う実践
第1回 秩父の山から母乳育児支援、
ときどき世界
近年、母乳育児を取り巻く環境は変化し、母乳率の低下や授乳困難事例の増加など課題が複雑化しています。本連載では、助産師が母乳育児支援の実践や迷いを読者と共有し支援の楽しさと奥深さを再発見しながら、現場で生かせる知見と専門性の向上を目指します。