新福洋子
私は病気で亡くなった父の希望もあり、もともと看護師を目指していました。ところが、看護大学3年生の母性看護学実習時、分娩室に入らせてもらう機会があり、それが助産師を志すきっかけとなりました。流産を繰り返して、ようやく出産を迎えようとしている産婦さんのお産に立ち会ったのです。私は助産師と一緒に、産婦さんへの足浴やマッサージをさせてもらいながら、その助産師が分娩進行を的確に判断しつつ、医師と連携して医療介入と専門的なケアを進めていく姿を間近で見ていました。そして、3日間の痛みに耐え抜いた産婦さんが、とうとう出産のときを迎え、医療機器と人が慌ただしく集まってきました。最後のいきみをがんばる産婦さん、緊張の中、分娩室の端で見守るしかできない私、「赤ちゃん、出ますよ~」という助産師の声……。赤ちゃんが産声を上げたときの感動は、今でも鮮明に思い出すことができます。
あれから25年。助産師として臨床を経験した後、アメリカの大学院に留学、そこから国際保健の研究でアフリカに行き来するようになり、任地を東京、京都、広島に移しながら、さまざまなことを経験しました。特にアフリカでは、同じ助産師たちが最新の知見と技術を得られる教育研究を長く続けています。WHO(世界保健機関)のイベントで表彰を受けたり、WHOとICM(国際助産師連盟)の出版物をまとめる専門家委員に加わり、国際的な声明文を出したりと、これまで多くの機会と人に恵まれてきたと感じています。
現在は大学院の教授として、自分が受けたような教育の機会を提供したいという思いから、多くの留学生を受け入れて、自国の看護・助産ケアの改善に寄与する人材育成を行っています。アフリカでは、民間企業と連携し、必要な医療機器を導入する研究にも取り組んでいます。また、プライベートでは二人の子どもに恵まれ、生活は賑やかなものになりました。
今後は、まだ小さい二人の娘を育てながら、現在行っているような国際的な仕事と後輩の育成を続けていきたいと考えています。そして、もう少し落ち着いたら、これまでとは異なる視点から、子育てに関する研究にも取り組んでいきたいです。
本記事は『ペリネイタルケア』2025年4月号の連載Rootsからの再掲載です。
