暁の医療現場で出会った感激
大多数の読者の皆さんは、NICU に人工肺サーファクタント補充療法もHFO(高頻度振動換気)もなかった時代なんて想像もつかないことだろう。
40年前、今のように機械に囲まれたNICUはまだなく、小児科病棟の一画にあった「未熟児室」が新生児医療の最前線だった。人工肺サーファクタント補充療法がない時代、それでも、「ベビーバード」という非力な新生児用呼吸器だけを武器に、極低出生体重児の治療が行われていた。手元に残る当時の退院サマリーを見ると、1,000g未満で出生した赤ちゃんたちのほとんどは、一部のSFD(small for dates)児を除いて生後間もなく亡くなっており、1,300〜1,400g前後で生まれた極低出生体重児が助けられるかどうか、といった状況で、その最大の原因が新生児呼吸窮迫症候群(respiratory distress syndrome;RDS)であった。RDS は間違いなく赤ちゃんたちの「いのち」の行方を大きく左右していたのだった。
1980年代に入ると、肺サーファクタントの働きやそれを実際に臨床で使うための研究が盛んに行われた。論文や研究発表を通じて、その治療が自分たちの臨床現場に何をもたらすのか、とても期待していたことを思い出す。その後、NICUで初めて自分の受け持ちの赤ちゃんに人工肺サーファクタントを投与したのは、市販に先立って臨床治験に参加していた東京女子医科大学のNICUでのことだった。在胎24週、700gほどで生まれた超低出生体重児。当然のように呼吸窮迫で全身色不良、状態は時間とともに悪化して行く中、人工肺サーファクタントを投与するやいなや、たちまち赤ちゃんの皮膚色が赤くなっていったときの驚きとも感動とも、なんとも表現できない気持ちは今でも鮮明に思い出すことができる。
その後、HFOをはじめ、さまざまな技術や治療が導入され、気が付いてみれば、日本の新生児医療は世界に誇れる成績を上げられるようになったわけだが、その経過において、あれほどの感激にはその後、一度も出会うことはなかった。今では、あのときの感動こそが慢性的な人手不足の中でも、新生児の臨床現場に立ち続ける大きな原動力になったと確信している。
この先、人工肺サーファクタント補充療法に匹敵するような革新が、再び新生児医療現場にもたらされることがあるかどうかは分からないけれど、「いのち」の危機に直面している赤ちゃんたちがいる限り、これからもそれを守る努力と研鑽を怠らない現場であり続けて欲しい。
埼玉医科大学総合医療センター新生児科特任教授
加部一彦
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す!がおのひとこと
定年の歳を迎え、仕事量を徐々に落としながら、これからは積んだままになっている大量の本やレコード、DVD を片っ端から片付けていきたいと思っています。そして、できればそこから自分なりに得たものを紹介するようなことができないかな、などとも考えています。目指すはTik Tokerでしょうか……そういえば、「歌って、踊って、お芝居のできる医者を目指す」なんて言ってたこともあったりしました。はるか昔のことですが。
本記事は『with NEO』2024年3号の連載「新生児医療の あ!のひと」からの再掲載です。