大槻克文
私にとっての“ここ”とは、現在勤務している「昭和大学江東豊洲病院」になります。この場所に赴任することは自ら選んだ道ではありませんでしたが、運命によって導かれたと考えざるを得ません。
三十数年前に産婦人科に入局して以来、周産期の中でも「早産の予防」という分野に没頭してきました。一方、医局人事においては現在の専門医制度が開始した20年ほど前に大学の医局長となり、当時は医局員の確保と関連病院の整理や撤退に没頭し、さらには今でいう「働き方改革(当直明けの勤務緩和)」に取り組んでいました。ちまたでは産婦人科医不足が叫ばれ、当院の所在地である江東区でも全国の周産期体制を揺るがすような事件が発生しました(詳細は割愛)。そのような医局内での流れと時勢の流れを受け、当院の開院に携わるよう、当時の教授から内々で指示を受けた次第です。10年前の開院前から、地域の産婦人科医療機関と顔の見える関係構築に取り組んでいます。地域での医師向け勉強会(現「江東豊洲産婦人科懇話会」)などを積極的に開催し、地域の周産期医療向上に努めています。
さて、私が産婦人科医を目指したきっかけは、30年ほど前の学生臨床実習にさかのぼります。医学部5 年生の春から実習を開始し、全診療科を月ごと・週ごとに順番に回っていく(システムは大学によって異なります)のですが、最初にお世話になったのが産婦人科でした。初日に分娩に立ち会わせていただき、“生命の誕生”の神秘に感動したことを今でも鮮明に覚えています。当時は現在のように臨床研修医制度はなく、医学部卒業と同時に一生専門にする診療科を決める必要がありました。現在以上に少子高齢社会への懸念が社会全体で叫ばれる中、特に産婦人科医は将来過剰になるといわれていました。「少子高齢社会なのに、産婦人科医は過剰になるはずなのに、なぜ産婦人科医を目指すのか?」と友人や両親からも言われました(私の実家は医業とは全く関係ありません)。それでも産婦人科医を目指したのは「“生命の誕生”に感動し、それに生涯関わりたいから」でした。今となっては、自分が興味を持った診療科に進んで本当に良かったと思っています。
ところで、当院開院時から続くキャッチフレーズは、先述の事件にも関連し「女性とこどもに優しい病院」です。当院の周産期センター(産婦人科)は東京都から地域周産期センターに指定されており、地域の妊産婦さんの妊娠・分娩管理、周辺地域の病院やクリニックから紹介されるハイリスク妊産婦さんの対応を主としています。現在、“生命の誕生”の第一歩である妊娠を望む方々の支援(不妊症外来)も順次拡大しており、まさしく“生命の誕生”から関わらせていただいています。
本記事は『ペリネイタルケア』2024年1月号の連載Rootsからの再掲載です。